true harmony

短文文化のこの時代に、感じたこと、考えたことを徒然なるままに。

インターネットはまるで、巨大な教室のようだ。【炎上に対して思うこと】

ここ数日、はてなブックマークの人気のエントリーやLINE NEWSで、インターネット記事の炎上がピックアップされているのを見て、いろんなことを考えた。

2chまとめサイトバイラルメディア、TwitterFacebook等のシェア機能があるSNSNAVERまとめをはじめとしたコピペメディア、Togetter。これらのサイトの繁栄は、確実に炎上の大きさと認知度の増大を助長している。

これらのメディアは、基本的に独自取材を行わずインターネットから情報を集めてきて記事にしている。だから、コピペ記事のコピペ記事を編集した記事なんていう、いわゆるコピペ3世記事も大量に存在しているのだ。

細分化された東京、均一化していく地方都市

もともとインターネットは、海の上に孤島がたくさんあって、それぞれの島にそれぞれ異なる特徴の住人が住んでいる感じだったんじゃないかな。

例えるなら東京。新宿、六本木、渋谷、原宿とそれぞれの色がある。(僕は、道民なので正しい例えかはわからないが。)

それに対して現状は、例えるなら地方都市。イオンモールやチェーン店が立ち並びどこの地方都市も似通っているあの感じ。

みんなが同じ情報に触れることは、炎上の恐ろしさを強化した。みんなが一つの箱庭の中で生きているような感覚。
クラス内で同じ人の悪口が一気にぶわーっと広がるあの感じ。今のインターネットはまるで、巨大な一つの教室のようだ。

巨大な教室:インターネット

僕はそんな現状がちょっぴり怖い。学校の教室には独特の空気感や同調圧力があった。でも、それは誰かが悪いわけじゃない。別に誰かがその形を求めてつくったわけではないのだ。人が集まり、自然とそういう形ができあがった。

インターネットも、いろんな人の意思や行動の集合の末に現状がある。同じく人がつくっているのだから「教室という箱庭」と、「インターネットという箱庭」の空気感が似てきてもなんら不思議ではない。

厄介なのがインターネットは、心のなかを可視化する特徴をもっていることだ。そして、それが半永続的に残る。ほぼ日の岩田社長のインタビューが時空を超えてバズるなど、特徴がよく働く場合もあるが、炎上の場合となるとおそろしいことだ。

集団の力

正論の力は絶大で、集団が振りかざす正論のもとにはどんな理由や思いもかないはしない。そもそも集団 対 個人という時点で怖い。

そうなると誰も間違ったことを言えなくなる、発言することが怖くなる。本音を言える場所がなくなっていく。全世界に対して発信しているという時点で、そもそも、元々そういう場所ではないのかもしれないけど。

人間はいつだって間違う生物だ。感情の揺れや迷いって生物的にはバグみたいなもので。しかし、だからこそ芸術や感動などが生まれて、人間を人間たらしめている。

いや。そもそも炎上という物自体、バグがなせる技であり人間らしいのかもしれない。じゃあ僕はなにが引っかかっているのだろうか。

願うは、平和。

多分僕は、人が傷つけ合うのがあまり好きじゃなくて、平和でいてほしい。ただ、それだけなのだと思う。

インターネットはコミュニケーションとしてはまだまだ過渡期で、一見双方向だが、実際は一方向を繰り返しているだけだ。なかなか建設的な対話というものは生まれにくい。

炎上って遊びばかりじゃなくて、各々の個人の倫理観や思いから生まれていて。でも、愚痴とか暴言の形になってしまいがちで。お互いに理解し合いながら伝えることができて、そしてお互いに前に進めるような、そんな風になったら良いなあと思うんです。

実際、炎上コメントって悪いものばかりじゃなくて、愛のあるコメントもたくさんある。

ただ言葉を投げつけることより、コミュニケーションを取ることは、とても労力がかかるかもしれない。だけど、本来コミュニケーションって手間がかかるものなのだと思います。

この記事だって単なるぼやだけれど、いつだって僕たちはよりよく生きるためにどうしたらいいかを考えていると思うし、その思いがより良い方向に僕たちを運んでくれることを信じています。