true harmony

短文文化のこの時代に、感じたこと、考えたことを徒然なるままに。

小さいころ嫌いだった、熱々のご飯が美味しくて。

小さいころ、熱々のご飯が嫌いだった。熱さで味覚が薄れてしまうから、ぬるくなって味を存分に感じ取れる状態になったご飯が好きだった。最近になって熱々のご飯が好きになった。熱さの中だけで存在できるような旨味と熱が、口の中から身体全体へと拡がっていく感覚が心地いい。

そうやって少しずつ、僕は変わっていく。変わってきた。

これも、小さい頃漠然と追いかけてきた、「大人になること」の一つなのだろうか。 「熱々なのが美味しい」という母親の言葉を聞いて、「大人になったらわかる感覚なのかな」と小さい頃の僕は考えていた。

そういったことがたくさんある。かつてはわからなかった、大人がわかっていて、自分にはわからなかったこと。それらを1つずつ積み重ねていく度に「自分が大人になった」ということを実感する。

だけど、結局のところ「大人」という虚像を見上げていたけど、どこかの瞬間から大人になるなんてことはなくて、少しずつ何かが変わっていく、ただそれだけのこと。堅物にならなければ思考は少年の頃のようにずっと自由なままで、大人だって悪くない。むしろいいもんだ。

特別だと思っていた大人ってやつは全然特別ではなくて当たり前で、神なんかじゃなくて、ダメなやつでもない。大人と子どもに境界線はない。それを知ってから、大人というやつを僕は受け容れられた。そうして知った。この世には大人と子どもなんかいないことを。歳を重ねた子どもと、歳を重ねていない子どもがいるだけで、どこまでも人間は人間で、同じ線の上に並んで立っているんだ。

僕が実感する大人になった証は、僕が見ていた誰かの背中だ。さっきの話なら、「熱々のご飯の美味しさを知る」母親の背中だ。そうやって大人らしきものを実感する度に小さい頃関わった誰かを思い出す。自分は自分だけでできているのではなく、他の誰かの集合でできていることを改めて思い知らされる。

生きていく分だけ、そういうことを重ねていくんだろうな。