true harmony

短文文化のこの時代に、感じたこと、考えたことを徒然なるままに。

3.11

日本の歴史においても語り継がれていくであろうあの日3.11から一年が経ちました。
あの日、集会が行われていて地震が来ても
渡部先生は揺れに気付きもせず話を続けていたというチャーミングな話を思い出します。
後ろの方でみんなが騒いでいた。
体育館であった為、体感震度は3程度でしたが我家だと5くらいになるなと少し心配しつつ考えていました。
長い揺れでしたがやがて収まり
地震は日常茶飯事なので特に大きく気に留めるでも無かった心情だと記憶しています。

帰りのHR前に
地震速報がモバゲーから届きました。
十勝の震度と震源地のみ書かれていました。
震源地が宮城の方と書かれているのを見て
余震でこっちがあれだけ揺れたのだから
相当な大地震だったのでは、という予感が頭をよぎった。
まだ東北の方で地震があったということを
三条の人たちは知らなかったわけで
その後に震源地の震度のメールも届いたので
近くの人に知らせ何人かが少し慌て気味でHRが始まりました。

俺はその後皮膚科に行ったのですが
薬局でテレビを見て驚きました
街が丸ごと流れていた映像をに釘付けになりました。
そのとき、薬剤師のお姉さんのパンツが丸見えであったのですが
当然そんなことはぶっとび
テレビを見ていました。

学校に戻ると案の定、多くの人がそのような状況を知らないようで何人にも病院で見たニュースの事を話しました。
みんな驚いていました。


何が起きているか知りたくて足早に帰宅した
テレビを見た。町が流れるほどの地震なのに
俺の目にはライトに写った
後から海外メディアが叩いてたけど
軽い部分だけ写していたらしいね。

向こうにいる親戚に安否確認をしたりして向こうの状況を幾つか聞きました。
あと福島に彼氏と同棲していた絢香から連絡があり放射能が不安で北海道に戻りたいということでネットがほぼ使えないらしく札幌行きの便の時刻表と空席情報を送った覚えがあります。
やっぱり地元じゃないと現地に残ってみんなと云々よりすんなり逃げてくるものなんだなと。買い占めした話なども聞いて、ともだちを心配する一方でやっぱり当事者はそんな感じなのかあ、と思いました。



それから原発云々が始まり
何が正しく何が間違っているかもわからない
専門家や一般人の意見が飛び交い
多くの混乱を経て今に至りますね。


俺は多くのチャリティーや震災関係の色々な催しが行われているのをテレビ等で見てきたけど
やはり、なんというか実感が無い。

北海道からしたらいつもの地震かという感覚で終わり後に向こうの被害を知った。
現地を見ていないからか特別大きなショックを感じる事も無く一年が経った。
3.11の前後にも確かミャンマースマトラ沖地震などがありつい先月頃にも多くの死者を出した地震があったけど
大きく何かを思ったわけでも無いし
何かをしなければいけないと思ったわけでもない。
そしてその地震の全てを思い出せない。

3.11を外国で起きた事のようにしか
俺は捉えられていないんだよね。
世間ほど3.11をずっと忘れずにいようという
心意気が出来ない状態でいる。



原爆が落ちる時、俺の命の引き換えに
止めることが出来たとしたら俺は命を差し出すかもしれないけど
今回の地震ならほぼ確実にそんなことはない、そんな気がする。

それくらいすぐ海の向こうで起きたという
実感が無い。同じ国民として駄目だなあって
母国愛とか国民性を見いだせなくて
危惧されるべき国民の心境だと思う。

今回は他の国の人たちすら
自分達の事のように様々なことをしてくれたのに俺は自分の国でありながら何の志も持っていない。
自分駄目だなあって思った。

少量の何に使われるかはわからない募金をしてちゃんと使われると良いなあ。と思って
そして現地の人を可愛そうと思うより
ただ前向きで居てほしいなって
まわりに可愛そうと思われることを彼らは望んでいない。彼らは既に前向きに進んでいたのだから。震災の時から。そう考えた事をしたくらい。

支援はきっと嬉しいと思う。
オアシスで水を見つけた心境と言うより
マラソンで水を補給するような
生き延びるための力と言うより
前に進むための力となってくれていると思う


戦後の時もそうだったけど
日本ってどんどん復興していく力が
強いんだなあって思った。

そういう一体感を色んな所で発揮できたら良いなって思ったけど
今回の件に関する俺のように意識の低い人がきっと他にもたくさん居て1つになりきれない日本だから厳しいかな、と思いました。


こうやって整理していくと
少しだけ実感とかを感じてきました
非常に長くなったけど自分にとって意味があったみたいなので残して起きます。